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狛江市は多摩川中流左岸に位置します。市域の北端は国分寺崖線および野川、南端は多摩川にほぼ一致します。標高は20〜30mの間にあり、市役所を中心とした半径約2kmの円内に収まります。東は世田谷区、北・西は調布市、南は神奈川県川崎市(多摩区)に接し、これら3つの面積の大きな自治体に取り囲まれた日本で2番目に小さい市です。2016年の人口は80,964人で、毎年、微増。東京都下の区市のなかでもオフィスや工場・学校が少なく、住宅地の多い住宅都市です。
現在、市の北を野川が、南を多摩川が流れていますが、昔の野川は市北部のほぼ中央から南東に向かって流れ、また、狛江駅近くの弁財天池からは清水川が東に向かって流れていました。市内は標高20メートルくらいのほぼ平坦な地形ですが、かつての野川や清水川の流路と多摩川沿いはやや低い低地になっています。
昔の狛江は、川の流れる低地と小高い台地からなり、水と緑が豊かな環境だったと考えられます。実際に、狭い市域でありながら、昔の人々が生活した痕跡である遺跡は68か所あり、人々は川に近い台地の縁に生活していました。
弁財天池周辺の弁財天池遺跡からは、縄文時代以降の住居跡が多く発見され、人々の生活の痕跡が色濃く見られます。
例えば、縄文時代の落とし穴の遺構が発見されていますが、これは、水を求めに来た動物を捕まえるためのものと考えられます。
また、狛江駅北口の開発工事にともなう発掘調査では、縄文時代の敷石住居(しきいしじゅうきょ)や弥生時代の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、古墳時代の古墳の周溝が発見されています。
方形周溝墓は一辺が18メートルもある大きなもので、弥生時代の狛江に、地域における指導的な立場の人物がいたことをうかがわせます。
古墳時代になると、狛江には多くの古墳が築造されました。古墳が多いことから、「狛江百塚」と呼ばれます。狛江の古墳の多くは、5世紀半ばから6世紀半ばの約100年間に集中して造られました。
古墳の形は、円墳がほとんどですが、亀塚古墳は帆立貝形の前方後円墳でした。
狛江における古墳時代の特筆すべきものとして、狛江にてはじめて発見された古墳時代中期の土器「和泉式土器」や平成23年に発掘調査され、狛江における古墳の築造年代等の見直しを迫る猪方小川塚古墳等があげられます。
狛江への古墳築造の文化の伝播に、渡来人がかかわっていたともいわれますが、伝播の流れは定かではありません。
古墳築造の文化は、畿内から北武蔵を経由して南武蔵へ伝播し、多摩川をさかのぼるようにして広まったものと考えられます。
古墳時代に続く奈良・平安時代、さらに鎌倉時代の頃の狛江の様子については、あまりよくわかっていません。
発掘調査等によって、断片的に知ることができるのみです。
こうした中で、古屋敷・相之原(ふるやしき・あいのはら)遺跡(岩戸南三丁目)で発見された、古代官衙(かんが)の遺跡にみられる掘立柱建物の遺構(写真7)は、この地域が重要な拠点集落だったのではないかと推測させます。
鎌倉時代については、多摩川の対岸の枡形山に源頼朝の重臣稲毛氏が居館を築き、狛江地域も何らかの影響を受けていたのではないかと考えられます。
室町時代には、吉良氏が世田谷に領地を持ち、狛江もその影響下にあったと考えられます。
さらに、戦国時代になり北条氏が小田原を拠点として関東に勢力を拡大すると、北条氏の影響も受けます。
北条氏が家臣に与えた領地を書上げた『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』という史料には、「多波(多摩)川北駒井本郷」や「駒井登戸」、「駒井宿河原」と記され、「駒井」という狛江の地名が確認できます。
また、岩戸に吉良氏の家臣の江戸重久という人物がおり、岩戸周辺を支配していたことが史料から確認できます。
現在の市域は、江戸時代の和泉村、猪方村、岩戸村、覚東村、小足立村、駒井村の六か村にほぼ該当します。
狛江は江戸時代を通して畑地の多い農村であり、慶長14年(1609)に開削された灌漑用水路である六郷用水、昔の野川、弁財天池から流れる清水川等が重要な水源でした。
江戸時代後期の戸数は290戸、人口は約1,500人くらいだったと考えられます。関東は幕府直轄領や大名領、旗本領、寺領等が複雑に入り組んだ地域でした。
狛江も多分にもれず、とくに和泉村は三給支配といって、彦根井伊家、旗本石谷家、旗本松下家の三家が一か村を三分割して所領としていました。
明治政府は、明治2年(1869)の版籍奉還、明治4年の廃藩置県によって中央集権国家へ向けて動き出し、地方行政の改革も進めていきました。
廃藩置県後、狛江は神奈川県に属し、大区小区制という地方制度により神奈川県第10大区第10小区となりました。
明治11年(1878)の郡区町村編成法により県と各村を結ぶ郡が設置されると、狛江は神奈川県北多摩郡に属しました(後に、北多摩郡は東京府へ移管されます)。
そして、明治22年(1889)の町村制の施行によって、狛江の六か村が合併し、狛江市の前身となる狛江村が誕生しました。
日清・日露戦争は、狛江村にも大きな影響を与え、とくに日露戦争は、村を疲弊させていきました。日露戦争における狛江村からの従軍者は69名おり、そのうち戦没者は6名、傷痍者は2名でした。
明治時代以降も、狛江村は畑地の多い農村であり、米や麦の他に果樹蔬菜の栽培、養蚕、また多摩川での漁業が副業でした。
そんな狛江村にとって、昭和2年(1927)の小田急線開通は大きな出来事でした。
明治・大正生まれの古老からの聞き取り調査で、小田急線に話が及ぶと、多くの人が開通の年を覚えていたくらいです。
しかし、村の人口推移を見ると、小田急線開通後の数年は増加したものの、その後はほぼ純増で、郊外住宅都市等としての発展はまだ見られませんでした。
狛江が住宅都市へと変化していくのは、戦後の高度経済成長期になります。日中戦争終結の見通しがつかず、太平洋戦争が開戦すると、戦局は悪化していき、狛江村からも多くの若者が出征していきました。
また、銃後の負担もおおきくなり、狛江村に移転してきた軍事工場では、学生や女性たちが働き手となりました。
そして、昭和20年(1945)5月25日には、狛江村も空襲を受け、村の唯一の学校であった狛江国民学校(狛江尋常高等小学校)が焼失しました。
この戦争によって、狛江村の多くの方々が命を落としました。
昭和55年(1980)、二度と悲惨な戦争が繰り返されることのないよう、戦没者遺族会が中心となって、戦没者を追悼し平和を祈念する慰霊塔が西河原公園に建てられました。